KAMAKURA…それは京が中心と思われた音楽業界に坂東から殴り込みをかけた ロック(メタル)バンドである。
…「ブラザー」かいたあといてもたってもいられず作成。アホパラレルですので苦手な方は 見ないでください…
ちなみに上の絵でえらく光ってるのは全員革ジャンだからです…。
今後増えるかどうかはしらんッ

KAMAKURAメンバー紹介


主なバンド経歴

・伊豆で路上ライブを行っていた頼朝が政子と出会い、結婚。その資金力で活動の幅を広げる

・ファンクラブ「GOKENIN」発足。そのメンバーである義盛と景時が異例のバンドメンバーに選出される。

・「頼朝の弟だ」と称する謎の人物・義経が加入し話題となる。「ただメンバーになりたいだけ、シドヴィシャスみたいな奴」と 内部から批判が起こるも採用。お互いに「兄さん!」「弟よ!」という姿に景時は失神寸前、政子はチョップでキーボードを壊した。 義盛はドン引きした。

・GOSHIRAKAWA RECORDSからデビューしたミリオンの新人・KISOとシングル発売日をダブらせるという危険な賭けに出、 音楽業界を驚かせたが、シングル「上洛」は義経の神がかり的なメロディセンスと、義仲の荒れた私生活を皮肉ったとも言われる 頼朝のアンダーグラウンドな歌詞による名曲であった。セールスもKISOを圧倒し、期待された新人は音楽業界の闇に消えることになる。

・依然として音楽業界のトップに君臨し続けるクラシック音楽グループ・HEIKEに対抗するため、幅広い音楽活動を続ける。 とりわけHEIKEが強い人気を誇る九州地方で、ゲリラライブを慣行。GOKENINの草の根活動もあいまって、 HEIKE渾身のアルバム「DANNOURA」は悲惨なセールスに終わる。 HEIKEのリーダー・知盛は「見るべきものはみつ」という名言を残し音楽業界を去った。 なお、DANNOURAは発売された時の評価こそ悪かったものの、現在ではHEIKEの最高傑作といわれている。

・この頃から景時と義経の不和が表沙汰になり始める。二人の不仲については意見が割れており、義経のファンは景時の 一方的な讒言であるとし、、義経が人気があるのを妬んでいるという意見や、いや景時は頼朝が好きだから頼朝が義経にとられるのが 嫌なのだとかいう気持ち悪い意見まで様々である。(この噂を聞いた政子は頼朝が泣いて土下座するまで石を投げたという) 一方景時のファン(…とかいるのかな?まあいっか)は、頼朝の弟である義経の驕りは確かであり他のメンバーはGOKENINからも 不満がでており、軋轢を取り除こうとする縁の下の力持ち的な景時の役割を果たしただけともいう。

・義経の作曲能力と変則的なテクニックは素晴らしい物があり、ヴィジュアルのかっこよさからも人気はうなぎのぼりであったが、 その反面自分に酔いしれる所があり、ライブでも長すぎるギターソロを支えるため景時が腱鞘炎になったり、義盛が酸欠状態になりICUに 入るなど周りのメンバーが被害をこうむることも多かった。ちなみに裏で終わるまで待機していた政子と頼朝はあまりに長いので イチャイチャから本番までいってしまったらしい。 しかしながらKAMAKURAの人気は今や彼が左右しているといっても過言ではないため、リーダーの頼朝もあえて無視しつづけていた。 というか基本的に紅一点の政子と義経がいないとヴィジュアル的にあまりに厳しすぎるバンドだし。

・最初は無視していた頼朝だったが、GOSHIRAKAWA RECORDS社長がこっそり義経にソロデビューの話をもちかけて いたことを知って大激怒。義経は誤解だと否定するが、頼朝は義経が一発屋ばかり生み出すプロデューサー・行家と手を組み ソロデビューを図っていると断言、ほぼ強制的に脱退させる。 この事件は音楽界を揺さぶる大スクープとなったが、メディアに大きく取り上げられたことがKAMAKURAの新たなスタートを 後押ししたのは皮肉な事である。人気はあったが、GOKENINという大きな後ろ盾がなく、 またちょっとウマシカ純真な心をもつ義経には厳しい音楽業界を生き抜く力はなかった。 最終的にはGOSHIRAKAWA RECORDSからも見放され、音楽業界から抹殺された… ようにみえたが、モンゴルで新たなレコード会社を立ち上げたともいう。
その後、KAMAKURAが義経抜きで創ったシングル「ブラザー」は、その損失を感じさせない名曲でミリオンを記録したが、 ファンの間から「頼朝の真意がわからない」「義経脱退をつかった売名行為では」と賛否両論ある問題作でもある。

・プロデューサーが義盛から景時にバトンタッチ。一説によれば景時が一回でいいからプロデュースをやらせてくれと 頼んだため、丁度実家に帰りたかった義盛が仕事をまかせたが、帰ってきてからは完全にプロデューサーとしてふんぞりかえっていたらしい。 これ以後義盛と景時の溝は決定的になる。

・リーダーで作詞・ボーカル・ギターを担当していた頼朝がバイク事故で不慮の死を遂げる。メンバーは彼の遺児・頼家を新たに迎えるが 彼には頼朝ほどのカリスマ性がなく、様々なロビー活動でKAMAKURAを支えてきたGOKENINの心はぐらつきはじめる。
そんなさなか、義経なきあと「頼朝様にベタベタしていた」と嫉妬をかった景時が、プロデューサーのポジションを奪われた義盛との不仲もあって バンドを脱退。その後は政子がそのプロデューサーとしての豪腕ぶりでKAMAKURAの人気をトップランクに押し上げるが、 音楽性やバンドの方向性は大きく変わり、前期とは別物とみなされている。